河津の歴史は
この人なくして
語れない。
日本三大仇討ち物語の一つ「曽我物語」のルーツ
         曽我兄弟の父
 谷津に館の内(ヤカタノウチ) と云う地名があり、バス停には館跡(ヤカタアト)と書かれている。この辺りが平安時代の末頃に河津氏の館があった場所と云われている。河津三郎の父伊東祐親が建てたもので、後に源頼朝の妻となった北条政子とその母、曽我物語で有名な河津三郎の子五郎時致と十郎祐成がこの館で生まれている。曽我物語のルーツはその頃の伊東の領地争いから始まる。工藤祐経から伊東祐親暗殺の命をうけた大見の小藤太と八幡の三郎は奥野で頼朝一行と狩りを楽しんでいた祐親を赤沢山で待ち伏せする。【番手の大見は機をのがしてしまったが、二番手の八幡の三郎が放った矢は目的の祐親ではなく、側にいた河津三郎に当たってしまう。三郎は、ちらりと見えた敵の名を告げ、「妻子をたのむ」と一言残した後その場で息をひきとった。その後、妻の万却は子供を連れて相模に住む曽我の太郎と再婚。そして十入牢後、曽我兄弟は元服し、富士で巻狩中の祐経を夜いんに乗じて襲い、みごと父の仇を討つのである。
河津八幡神社「河津三郎の力石」
谷津の河津八幡神社の境内に、力持ち河津三郎が力だめしに使っていたと云われる手玉石がある。手玉石とは、「かるく手玉にとる」からきている。河津町出身の彫刻家後藤白童氏の作「河津三郎力石」の像には、名横綱双葉山書の題字が刻まれている。神社には祭神として三郎と曽我兄弟が祭られている。
河津駅より徒歩6分。
すもう四十八手の珍手
かわづ掛けの考案者
「河津掛け」は相撲四十八手の一つで一年六場所あるうちに一回使われるかどうかの珍しい技。プロレスでジャイアント馬場の得意技「河津落し」というのがあるが、これは河津掛けにあやかったものだ。そもそも河津掛けは河津三郎が考案者と云われ、その歴史は古い。時代は平成、貴乃花対貴ノ浪の同部屋対決による優勝決定戦。苦しまぎれにかけた河津掛けで貴ノ浪が優勝した。その時の国技館、われんばかりの大拍手。


段間遺跡
見高浜の台地の上に河津東小学校がある。大正14年の校舎建設工事中に現われだしたのが段間遺跡。縄文時代の早期後葉から中期後葉の遺跡で、敷石住居跡から土器や石器、装飾品などが多数出土して、中期後葉には大きな集落があったことがわかった。現在東小学校の校庭に住居が一棟想定復元されている。
また校内の郷土資料室に出土品の主なものが展示してある。多量に出土した石器の中で小形のものは、ほとんどが黒耀石でできている。この黒耀石は産地が限られ、分析の結果、伊豆七島の神津島のものと考えられている・・・はたして縄文人は海を渡ったのか?はるかな縄文の昔に興味がワク。今井浜海岸駅より徒歩15分。
黄金色の寝シャカ仏
涅槃堂
沢田にある涅槃堂は寛永年間に建てられたお堂で、ここに涅槃像がまつられている。
桧材一木造で漆箔(ウルシの上に金箔をほどこしたもので”しっぱく”と読む)、全長239・39cm、金箔や髪の紺色、唇の紅色などが良く残されていて、寛政8年(1796)頃の作としては、かなり丁寧な技法が見られるという。釈迦が生涯をとじて涅槃に入る時の姿を現わしたもので、像の背後には、寄木造漆箔の阿弥陀三尊を中心に24体の諸仏が並んでいる。阿弥陀三尊は釈迦を極楽浄土に迎えに来た像で、他の諸仏はそれを悲しんで集まって来た人々の様子を表現したものだ。河津駅よリバス10分上峰下車徒歩5分。
延徳の古戦場 河津城跡
河津城は足利氏の血をひく蔭山勘解由によって築かれた砦で延徳3年(1491年) 北条早雲の伊豆攻略軍にふもとから火を放たれた。城では燃え登ってくる火の手を防ごうにも水がなく、思いあぐねて兵糧庫から大量の米を運び出して、山頂から火の海めがけ流し出して消そうとしたが、とうとう消し止めることができなかった。以後蔭山氏は後北条氏の配下となるがその子孫蔭山氏広の時、こんどは豊臣秀吉に攻略され、滅んでいる。河津浜から一望できる大日山がその城山で、今でも土の中から焼けた米が出てくると云う。また桜公園として山頂まで遊歩道が整備されている。(徒歩25分)
栖足寺の「河童のカメ」
谷津の栖足寺は、元応元年(1319)覚照の草創と伝わる禅寺。ここに「河童のカメ」と呼ばれる祖母懐の壷(そぼかいのつぼ)がある。古瀬戸風の黒褐色の焼物で、底には「祖母懐加藤?右門」の記銘がある。江戸時代中頃の作と云われ、柔かい肩の張りや色あいが特長。寺の伝承には昔、いたずら河童が村人にこらしめられている時、寺の住職に救われ、そのお礼に河童が置いていった…という話しがあることから、河童のかめと呼ばれるようになった。河津駅より徒歩10分、要予約・有料。
幕末の天城越え
アメリカ密航に失敗した吉田松陰と金子重輔が唐丸寵で。
又、アメリカの初代総領事夕ウンゼント・ハリスの一行が通商条約の話し合いにと、開国をめぐり数多くの歴史的人物が、天城街道を往来しました。
観音山石仏郡
梨本から泉奥原を2時間ほど登った観音山の岩窟に39体。途中の観音山入ロ(観音山まで30分)に3体。東泉院跡に六地蔵6体、計48体の石仏がある。
岩窟の石仏群には上窟と下窟の2群があり、下窟のものは、元文元年(1736)西国三十三所観世音として安置された33体のうち27体(破損などで5体欠)、上窟は文化3年(1806)に新たに安置された12体のうち11体がある。
沢田石で彫られた石仏は、高さ40〜60cmのかわいいもので、一体一体表情があってぺーソスを感じてしまう。
バス停「梨本」下車徒歩1時間50分(観音山ハイキングコース)

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