ニ十歳の旧制高校生の「私」が、天城路の旅の途中で旅芸人の一行と出会い、「薫」という名の踊子に、孤児根性で歪んだ心をやさしくときほぐしてゆく青春抒情文学「伊豆の踊子」。川端康成は、この小説の中に、当時の天城峠附近や湯ヶ野温泉の情景、生活の一部を、そのむだのない表現の中に集約させている。そこでその足跡をたどりながら、当時の余情を幾つかのポイントから探ってみることにする。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃
 このあたりは天城湯ヶ島町側の水生地下から水生地に至る本谷林道で、原生林や美しい渓谷は当時の情景とまったく変っていないようだ。「私」は朴歯の高下駄で道を急いでいるが、それにしても高下駄で登るのは至難の技。
 やがて麓かち追って来た雨に打たれながら峠の茶屋までたどりついているが濡れた下駄はたいヘん滑りやすいものだ。今の我々の軟な足とはちがうことはとにかく理解できた。
峠の茶屋で「私」は目的の踊子の一行と再会し、おちつかなくも休んでいる。当時の峠のトンネル(現在、旧天城トンネル)は、両口に峠の茶屋があり、灯りもない暗いトンネルを抜けるために貸し提灯もあったと言う。提灯は反対側の茶屋ヘ返せばよかった。
暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた
今は灯りがうっすらと灯されているが、そのコケむした石組の天井からは、雨のなごリ水がシミ出し、冬ともなると、それがツララになって垂れ下っていることもあるので頭上注意。余情にひたりたいハイカーたちにとってはうれしい情景をとどめている。
トンネルの出ロから白塗りの棚に片側を縫われた峠道が稲妻のように流れていた
今は途中舗装もされているが、「稲妻のように流れる道」は当時のまま。「私」はこのあたりで、踊子の一行と話しをかわし、しだいにうちとけてゆく。
湯ヶ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下りだった。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた
やがて雨もあがり、下りて行くにしたがって空気は密度を増し、原生林も、その形態を刻々と変えてゆく。まして雨あがりの情景は、「私」をして「南国らしく感じられた・・・」といわしめたにちがいない。やがて、すっかり親しくなった「私」と一行は湯ヶ野温泉に到着し、踊子一行は木賃宿に、「私」は川を渡ってすぐの旅館に案内される。そして、小説の中で最も官能的な名場面をむかえることになる。
踊子が料理屋の宴席に呼ばれた様子を想い「私」は
ああ、踊子はまだ宴席に座っていたのだ。座って太鼓を打っているのだ。
太鼓の音が聞こえるとホットし、止むと沈みこむ。どうにもならない悩ましい気持ちで夜を更かす。そして翌日、宿の湯に入っているときの事。川向うの共同湯から裸のままとび出し、「私」に向って屈託なく手を振る踊子を見て、
若桐のように足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ことこと笑った。子供なんだ。
ここで「私」は踊子が生娘であることを確信し、その朗らかな喜びで笑い続けている。木賃宿(たきぎ代だけで宿泊できる安宿)は今はもう見ることもできないが、共同湯や「私」が泊った宿は、少し趣を変えたものの健在で、清流沿いにたたずむ温泉情緒も、当時の情景を想いめぐらせるのに不自由はしない「踊子抒情」をたたえている。この後、話は下田まで統き、港での別れとなるが、これぐらいにする。
以上、川端康成愛読者には“いまさら”かも知れないが、文学素人でも、小説片手に実際に歩くことによって楽しみがぐんと増してきた、ということを報告したしだいです。




時代のヒロイン
主演で

伊豆の踊子は青春純文学の代表として過去6回も映画化されている。そして映画化のたびに、監督や時代のヒロインたちがロケに訪れ、川端文学を勉強していった。
第1回目は昭和8年田中絹代・大日方伝主演。
そして戦後になって昭和29年美空ひばり・石浜朗。
35年鰐淵晴子・津川雅彦。
38年吉永小百合・高橋英樹。
42年内藤洋子・黒沢年男。
そして、まだ記憶に新しい、山ロ百恵・三浦友和コンビで話題になった。


TOP 宿一覧  歴史 味覚  ハイキング 釣り スポーツ イベント MAP アクセス リンク



◆河津温泉旅館組合◆